歴史と挑戦
これまでの道が、
この先の道をつくる。
鈴与では、これまで物流事業を核にしながら、
新たな分野を開拓し、さまざまな事業を興してきました。
その原動力は、人々の暮らし・生活・経済活動を支えるという強い想いです。
新しい価値を創造し、社会に貢献する姿勢はこれからも変わりません。
鈴与がこの先、どの方向に進み、どんな社会課題に挑むのか、ご期待ください。
未来への道が、次のイノベーションが、ここからはじまります。
時代への対応 「石炭販売業開始」
鉄道の普及という逆境を、
鉄道の燃料供給という好機に!
それまで、製茶の輸出が順調に推移したことから、清水港の海運は活況を呈していた。ところが、東海道線が1889年(明治22年)開通し、製茶が鉄道で横浜に運ばれるようになると、鈴木与平商店(当時)は大打撃を受けてしまう。その時、すでに小さくスタートしていた石炭販売をきっかけに、ライバルである鉄道に対し営業をかけ、石炭の納入を受注。これが販売部門推進の原点となり、回漕部門と共に鈴与の二大基幹事業へと発展する。成長のエネルギーは、苦境から生まれたのだ。
地元産業の創造 「清水食品設立」
雇用を促進させ、
缶詰の一大産地となる第一歩に!
1930年(昭和5年)に設立したのが、清水食品株式会社。静岡県水産試験場がビンチョウマグロ油漬缶詰の製造技術を完成させ、その企業化を六代目与平らが実現した。その背景には、雇用を増やすことで、当時、不況によりあふれていた失業者を救済するという目的もあった。清水食品のマグロ缶はアメリカで大好評となり、さらにミカン缶は欧州で市場を広げていった。そんな清水食品の成功をみて、周辺エリアでは缶詰産業へ参入する企業が急増。わずか数年で、清水は缶詰の一大産地となった。鈴与の『共生』が、そこには詰まっている。
社会貢献と研究 「インスリン抽出に成功」
糖尿病で悩む日本人のために、
純国産インスリンを!
糖尿病の治療薬であるインスリン製剤は、1920年代の発見・製剤化以降、輸入に頼っていて高価であった。国内産が求められ、魚からインスリンがとれることはわかっていたが、製薬化には至っていない状況であった。その頃、入院していた六代目与平は、人命の大切さを実感し、缶詰の利益を新薬の開発につぎ込むよう指示した。
鮪から抽出したインスリンの製造に成功し、1941年(昭和16年)に企業化。清水製薬株式会社として、日本発のインスリン製剤を市販した。多くの糖尿病患者を救ったその薬の名は、イスジリン「シミズ」という。
働き方を改革 「初任給の最低賃金協定を結ぶ」
最低賃金の原点。労働力を確保し、
質で世界と競合するために!
すべての労働者とその使用者に対して適用される最低賃金。いまではよく知られるこの制度を、法律化される3年前の1956年(昭和31年)に六代目与平が缶詰工場に導入している。国の動きよりも早く、最低賃金制度をつくったのが、ここ清水だった。高度成長期に入ると、造船業が活気づき、福利厚生が充実した大企業に労働力が流れていった。そこで、最低賃金を保障することで労働者の生活を守り、大切な人財の流出を防いだのだ。これにより各工場の製造品質を高い水準で均一に保つことができ、輸出先である米国での競争力を高めることができた。働き方を変えるのは外からではなく、内からという姿勢は、いまも鈴与の中に受け継がれている。
新分野への飛躍 「航空会社設立」
地方と地方、人と人を翼でつなぎ、
交流の架け橋に!
「フジドリームエアラインズ」こそ、鈴与のチャレンジ精神を象徴する事業である。大学時代、航空部に所属しグライダーパイロットであった与平社長(当時)が、静岡空港の開設をきっかけに、大きな夢の翼を広げた。当初は複数の企業体で航空会社を設立の予定が、航空業界が不安定な時期と重なり共同出資が厳しい情勢に。そこで与平社長(当時)は「自分一人でやる」と、鈴与100%出資を決断。グランドハンドリング(空港地上支援業務)やフライトシミュレーター(訓練)もグループ企業で担うことで、大手航空会社の系列に属さない独立した事業運営の体制を確立し、2008年に「フジドリームエアラインズ」が誕生した。開設時2機であった機体は、現在16機に増え、日本の地方と地方を結ぶリージョナルエアラインとして、今までにない新しい風を送り続けている。夢を叶えた飛行機が、地方の人と夢を乗せて、今日も日本の空を彩っている。