ともいき200年の歩み

鈴与の2世紀にわたる歳月を振り返って

鈴与の興り

巴川の穏やかな流れが海に注ぎ、懐深い三保半島に抱かれた河港・清水湊は、富士山を望む絶景の地で、鎌倉時代から海上交通の要衝でした。

徳川時代に入って、東海道が整備される中で江尻が宿場に定められ、清水湊は海陸両面で一層の賑わいを見せていきました。やがて徳川家康は、大坂夏の陣の勝利に貢献したとして廻船問屋42軒に特許を与えます。鈴与の初代与平は、この問屋の一人である港屋平右衛門から問屋株を譲り受け、1801年(享和元年)、廻船問屋・播磨屋与平を創業しました。

1801年(享和元年)の播磨屋与平の創業を物語る記録

幕末から維新の荒波を越え、明治時代隆盛の礎を築く

1615年(元和元年)以来、営業上の特許を付与されてきた清水湊の特許問屋は、1841年(天保12年)の天保改革によって一時的に問屋特許を停止され、問屋数は38軒に減少しました。初代、二代と続く播磨屋与平を三代与平が引き継いだこの年に、この問屋特許を失い、保護のない自由場裡にさらされました。三代与平は、この経験したことのない荒波を乗り切ります。

1852年(嘉永5年)、この問屋特許停止は解除されたものの、次を襲った安政の大地震(1854年)による痛手は計り知れないものでした。そうした苦難にもめげず、扱い品目の拡大に努め、幕末の動乱期を迎えるまで播磨屋与平(商店)の地歩固めに尽くしました。

三代・播磨屋与平

開化の時代、急速な近代化の波に乗る

幕末から明治に入って諸外国に門戸を開いた日本は、政治制度から食生活に至るまで、すべての面で急速な近代化が進展しました。清水の湊を近代化すること——三代与平の後を継いだ四代与平の思いは、その一点に絞られ事業の拡張と多角化に邁進していきます。

1889年(明治22年)、東海道線の開通は鈴与にとって大きな契機となりました。鉄道の発達が港の繁栄にはマイナスに働くという不安をバネに、塩や茶に加え石炭を扱い、鈴木与平商店と名称を改め、開化の時代へ果敢に進出していきました。

1879年(明治12年)、四代与平ら町の寄付金によって巴川に架けられた港橋
1891年(明治24年)の江尻駅

開港の清水港を支え、堅実に店務を伸ばす

1899年(明治32年)、官民挙げての関係者の熱意によって、清水港は開港場に指定されました。清水港は、1909年(明治42年)には第1次修築工事を行い、次第に外国貿易港としての体裁を整えていきました。1911年(明治44年)にはアメリカ向けの主要輸出品である茶を中心に、五代与平の時代に貿易額は1,000万円を突破し、開港時に比べて著しく実績を伸ばしていきます。

明治から大正にかけて、清水港は農産物を中心にして多様な輸移出入港として、さらなる発展をみせる中、五代与平は塩元売捌人の指定を受ける一方で、時代の伸長に歩幅をあわせて木材回漕業や船舶代理店業、さらに海上保険の代理店も開始するなどして、事業を拡張していきました。

大正年間の印半纏
1906年(明治39年)、日本郵船・神奈川丸が清水港入港。静岡茶を積載し北米向けに出港。
貿易額1,000万円突破祝賀会。清水船入場北側の埋立地で行われた。

果敢な事業展開と清水港発展に心血を注ぐ

1917年(大正6年)、神戸・鈴木商店の製油工場が完成し大豆輸入量が急増した清水港は、石炭輸入・木材輸入などを契機として、輸入超過へと転じることになりました。増加する輸出入貨物への対応から、第2次修築工事が進められ、3度の大地震や拡張計画の大幅見直しなどを経て、1938年(昭和13年)になって完成しました。

すでに清水市が誕生し、都市機能の整備とともに躍進を期待された清水港は、六代与平ら関係者が心血を注いで近代的な港湾が建設されていきます。六代与平は、店務においては石炭からコークス・煉炭・石油へと販売を拡充し、再製塩元売捌人の指定を受け、さらには将来を見据えて倉庫業をいち早く法人化する一方、社会的な使命感から清水食品を設立しました。

大正初めの清水湊波止場の風景
大正初めの清水港の倉庫地帯
1929年(昭和4年)、新岸壁での初めての岸壁荷役
清水食品本社。1929年(昭和4年)、当時の不況による失業者の救済に役立てたいという強い思いから清水食品(SSK)を設立。
1934年(昭和9年)の本社屋
鈴与で一番早く開設した石油スタンド、清水大曲スタンド

昭和激動の波を乗り越え、のれんを守り地域や福祉向上に捧げる

数度にわたる空襲を受け、焦土の中で終戦を迎えた清水港は、1947年(昭和22年)には早くもみなと祭りが復活して、再建への力強い足取りを見せます。1952年(昭和27年)には特定重要港湾の指定を受け、輸出入貨物も増加、港湾設備も急ピッチで整備が進んでいきました。

清水港でも海上輸送のコンテナ化が急速に進展します。興津第1・第2埠頭の建設が進められ、ガントリークレーンやコンテナヤードが整備され、さらに袖師第1・第2埠頭建設へと拡張されていきました。一方、販売部門においては燃料革命が進む中で、石炭販売がピークを過ぎ、急速に液体燃料の石油への転換が図られました。また気体燃料のプロパン需要も伸びて、扱い品目の多角化が進んでいきました。

七代与平は、戦後の混乱の中、事業の拡張に傾注した一方、公的な活動を通しても地域に尽くしました。清水市立病院の開設、市立清水小学校への特殊学校開設、福祉施設「宍原荘」の開所、清水港湾資料館(現・フェルケール博物館)など、福祉・教育・文化振興にも大きな役割を果たしました。

1964年(昭和39年)、宮加三の鈴与プロパン充填所
1964年(昭和39年)、建設当時の清水市立病院

柔軟で強靭な企業体質で、新時代へ更なる挑戦

物流の革新を目の当たりにして、清水港も鈴与も対応を迫られていました。輸出入貨物が増加するにつれ、コンピュータ化の進展、物流形態の多様化、コストの低減化などの要請が強まり、港湾物流の拡充と強化が緊要の課題となっていました。八代与平は、事業の統合と整備を進めつつ、課題の克服に挑戦を続け国内物流の整備を進める一方で、御前崎港、豊橋港を含めた港湾物流の整備とグローバリゼーションに対応した国際物流機能の拡充を図っていきました。

一方で将来の進展が期待される部門については、積極的な事業展開と分社化が進められました。中でも、創業以来の柱である運輸部門と性格を異にする販売部門が分社・独立し鈴与商事(株)が誕生したことは、鈴与の歴史上もっとも大きな事業改革となりました。

また、静岡理工科大学開設や清水エスパルスの運営支援など教育やスポーツを通して地域社会の発展に寄与しました。

1991年(平成3年)、静岡理工科大学開設。八代与平が初代理事長に就任。
1998年(平成10年)、清水エスパルスの運営支援開始
1998年(平成10年)、日本初のセルフ式ガソリンスタンド開設

常に時代の変化に対応し、挑戦を続ける鈴与

鈴与は、常に時代の変化に対応し、その結果、個性あふれる約140社が集う企業グループに成長しました。その事業内容は、物流からエネルギー・環境対応商材をはじめとする商流、建設・ビルメンテナンス・警備、食品、情報、航空、地域開発・その他サービス分野に至るまで、その領域を幅広く拡大しています。

鈴与は、それらグループパワーを結集し、皆様の暮らしと社会を、より豊かで明るいものとすべく挑戦を続けています。

2005年(平成17年)、UPSとの戦略的提携契約締結
2010年(平成22年)、(株)フジドリームエアラインズ設立し航空事業に参入
2012年(平成24年)、清水港メガソーラーを稼働